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「第9回」
5
携帯電話を頭上に掲げたまま、じっと成り行きを見守る。モニター上部のタイマーだけが1/100秒単位で目まぐるしく動いていた。
1秒。
2秒。
3秒。
と、室内から、
「だから、ボサッとすんな、ボサッと! 死にたいのか、テメエ!」
という怒号が聞こえてきた。美桜の声だ。直後、バチーン! という強烈な打撃音。誰かが誰かを平手打ちしたかのような。が、望月の位置からでは、部屋の中の様子は全くわからない。
突然、割れたガラス窓が開けられた。そして次の瞬間、若い女がひとり、窓の外に力づくで放り出された。彼女の悲鳴が夜空に響く。叫びながら、それでも女は必死に目の前の枝を掴む。たわむ枝。折れないだろうか。足を無様にバタつかせ、やがて、その足も枝に無事に絡ませることが出来た。遠目のシルエットは、チンパンジーかコアラ、あるいはナマケモノといった感じだ。望月は、それも夢中で撮影をする。と、窓から美桜が顔を出した。下に望月がいるのを見て顔を顰め、「シッシッ」と野良犬を手で追い払うような仕草をする。望月は、素直に5メートルほどアパートから下がった。直後、美桜はヒョイっと2階から飛び降りた。
「ひ!」
あまりに無造作に美桜が飛んだので、望月の方が思わず悲鳴を上げてしまった。美桜は両腕で頭ガードし、着地の寸前に、体を時計回りに捻った。同時に、足を柔らかく折り畳む。まずは足の裏で。次に太ももから背中で回転しながら衝撃を殺す。そして、ブレイク・ダンサーが起き上がるかのように、その回転の力を利用して、あっさりとまた地面からスッと美しく立ち上がった。まるで、高度に訓練されたパラシュート部隊の兵士のような受け身だった。
「す、すごいね、美桜ちゃん……」
望月はモニターから顔を上げ、感嘆の声を漏らす。
「父親、新体操の選手だったんですよ」
美桜は、土埃を手でパンパンと払いながら言う。
「家族を捨てる前は、こういう技、好きでいくつも習ってたんですよね」
「へええ」
「昔、高速道路で車から飛び降りなきゃならなくなった時にも、これ、役に立ちましたね。便利です」
「へ、へええ」
どういう事態になると、高速道路で車から飛び降りることになるのかと思ったが、今、それを細かく質問している状況ではないと望月は思った。美桜は「さてと」と言いながら、頭上の木の枝を見る。先ほど美桜が放り投げた若い女の子は、まだ、ナマケモノのポーズのまま、半泣きで枝にぶら下がっていた。
「飛び降りて!」
美桜が上に向かって叫ぶ。
「む、無理です!」
女の子が泣き叫ぶ。
「そこなら落ちても死なないから!」
また美桜が叫ぶ。
「無理です!」
女の子が首を激しく横に振る。美桜は小声で(めんどくせー女だな)と呟くと、望月に向かって手招きをした。
「先生。ここに立って」
「え? 僕?」
「そう。ここ。携帯は仕舞って」
「あ、はい」
ふたり並んで、木の下に立つ。美桜は頭上の女の子に、
「ふたりで受け止めるから、そのまま落ちて!」
と叫んだ。
「え? 無理です!」
女の子は頑固だった。
「ずっとそこにいるつもり? ずっとそこにいたら、囲炉裏の遠火で焼かれる鮎みたいになっちゃうけど、それで良いの?」
そう美桜は怒鳴る。パチパチとアパートの燃える音は強くなり、熱さもどんどんと増している。野次馬たちが集まってきているが、まだ消防車のサイレンの音は聞こえてこない。
「さあ!」
美桜が両手を広げる。
「私と先生を信じて落ちろ! 受け止めるから! 5秒で決断しなかったら見捨てるぞ! 5!」
次の瞬間、女の子の握力が尽きて、悲鳴を上げながら落下した。
☆
一瞬の無重力。
木の下の男女が、両手を、落下してくる彩華の身体の下に差し入れてくれる。
が、女性の方が力強く受け止めてくれたのに、大男の方は膝からグシャリと潰れてしまった。
「!」
左右のバランスが崩れ、彩華は仰向けに倒れた大男の腹部の上を転がることになった。弾みで、肘が、大男の鳩尾を抉る。
「ゲブウッ」
踏み潰されたガマガエルの悲鳴のような声を大男が出した。気持ち悪い。命の恩人かもしれないが、それよりもブヨブヨとした巨大な脂肪のベッドの感覚が気持ち悪い。起きたら火災が起きていたショックと、窓から外に投げられたショックと、そしてこの大男の気持ち悪さとがハイブリッドして、彩華は過呼吸になっていた。涙も止まらなくなっていた。とにかく、必死に、這うようにして大男の身体の上から降りる。野次馬たちが自分にスマホを向けているのが見える。嫌だ。こんなところを撮られているなんて。しかし、過呼吸なので、抗議も出来ない。ただ「アウアウ」と言いながら、両手を振り回す。
その瞬間だった。
野次馬の中に、彩華は、自分が知っている顔があることに気がついた。
(正弥?)
並木正弥。彩華の初めての彼氏。そして、束縛が酷く、どまつりの委員会の仕事をまったく理解してくれないので、彩華から別れを切り出した男。
(本当に、正弥?)
テロテロのシャツばかり好んで着る男だったが、今は黒のトレーナーを着てフードも被っている。髪型が崩れるからフードは嫌いだと言っていたのに。正弥と目が合う。と、うっすらと、彼の口元に笑みが浮かぶ。彩華は目を疑う。いくら別れたとはいえ、いっときは彼女だった女がこんな酷い目に遭っているのに、彼はなぜ撮影をしているの? なぜ、笑っているの? なぜ……
と、彩華は背後から両肩を掴まれた。先ほど、彩華を窓から放り投げた女だ。そして、彼女の方は覚えていなさそうだったが、数日前、掖済会病院のすぐ近くの道ですれ違った美女だ。その彼女が、彩華の耳元でこう質問してきた。
「あそこのスマホ男、知り合いか?」
「は、はひ……はあはあ」
「どんな知り合いだ?」
「も……も……元カレ……です……」
正弥は、美桜の視線に気づいたらしく、急にスマホを仕舞うとくるりとこちらに背を向けた。立ち去るつもりのようだった。
「そこのおまえ! ちょっと待て!」
美桜が、彩華の背後で立ち上がる。正弥は聞こえないフリをして去っていく。美桜は彩華を飛び越すとそのまま正弥に向かってダッシュをし、彼が深く被るフードに向かって手を伸ばした。
6
翌日。
ヤマモトは、ランチを食べに、名古屋から岐阜駅行きの電車に乗った。普段は部下の運転による車移動が主で、電車に乗るのは久しぶりだ。空席に座り、iPhoneを取り出す。AirPodsを耳に嵌め、昨夜からネットでバズっている動画を再生する。
とあるアパートの火事現場。
逃げ遅れた女性を窓から放り出す女。
突然、野次馬の一人を追いかけ、背後から蹴りを入れ、顔面にパンチを入れ、鼻血を出しているその男に馬乗りになり、
「あの家に火を付けたのはおまえか? おまえなのか?」
と、ぐいぐいと首を絞めながら詰問する女。
(フフ……)
思わず、ヤマモトの口元が綻ぶ。何度見ても面白い。面白過ぎる。この女は、人を殴る時に「躊躇い」というものが無い。頭のネジが何本か飛んでいる。あるいは、よっぽど自分の行動の正しさに確信を持っているのか。ヤマモトの部下にも喧嘩自慢は多くいるが、この女ほど躊躇いなく他人を殴れる者はいない。
(部下に欲しいね。や、その時は、この女を姐さんと呼んで俺が部下になる方が良いかもな……)
そんなことを考える。
かつてヤマモトは、この女と、夜の山奥の廃トンネルで対峙したことがある。漆黒の闇に沈む旧濃尾第3トンネル。中部日本最恐の心霊スポットとして有名な場所だ。そこにこの女は、誘拐されたフィリピン・パブの女たちを取り戻すためにやってきた。
「私は、広中大夏の姉だ」
そう堂々と名乗った。
「私みたいな者に、あっさり自分の身元をバラして大丈夫ですか? 大夏くんのお姉さんという情報だけで、私は簡単にあなたの家くらい突き止めますよ?」
そうヤマモトがやんわりと脅すと、この女は鼻を鳴らしてせせら笑った。
「そんなの全然怖くないね。事と次第によっちゃ、私は今日、あんたのアタマをカチ割ってこの山に埋めるつもりだから」
今思い出してもゾクゾクする。あんなセリフを自分に言う人間がまだいるなんて。それも女。絶世の美女と言っても良いような美しい女だ。
「ふざけんな、クソが。先に彼女たちを返せ」
顔に反比例して口は悪い。
「だいたい、あんたは喧嘩は弱そうだし、後ろの兵隊もたったの5人じゃん。私ひとりで3人はやれるし、残りは私が連れてきた法曹界のアンドレ・ザ・ジャイアントと言われた望月先生がぶっ殺してくれるでしょ」
火事現場の動画投稿者のハンドルネームが「もっちい」。十中八九、あの望月とかいう弁護士だろう。火事現場でこの女に殴り倒された男は、半泣きでこう叫んでいた。
「許してください! あんなに燃えるとは思わなくて!」
カメラがズームで男の顔に寄る。その顔に、女からのトドメのパンチ。そこに、消防車とパトカーのサイレンの音がフェード・インしてきて動画終了。これが、昨夜からもう500万回再生を超えている。コメントの数もものすごい。「もう一度再生する」のボタンをクリックする。何度見ても、この動画は最高である。
電車は、長良川を渡り、笠松競馬場の厩舎を過ぎ、岐阜駅のホームに滑り込む。ヤマモトはiPhoneとAirPodsを仕舞うと電車を降りた。中央北口に出て、ロータリーを抜ける。黄金の信長像に軽く会釈をしてから、タマミヤの商店街へ。目的地は、先ほどの動画の主役である広中美桜の実家『喫茶 甍』である。正確には、元『喫茶 甍』。この店が既に廃業していることをヤマモトは知っていた。
店の前まで徒歩10分ほど。まだ看板はある。プラスチックは劣化して複数ヒビが入っており、灯りも点いていない。入り口のドアを押すと、ドアはすんなり開く。ドアベルがカランカランと鳴る。
「こんにちは」
中に向かって声をかける。
と、すぐに「はーい」という声がして、年配の女性が出て来た。オレンジ色の麦わら帽子にオレンジ色のTシャツ、それに、オレンジ色のスカートを履いている。なかなか、パンチのある格好だった。
「お店、開いてますか?」
廃業を知っていて、ヤマモトはそう尋ねる。
「もちろん、開いてますよ。どうぞどうぞ」
年配の女性が、明るい声で答える。美桜と大夏の母・琴子である。認知症の初期から中期と聞いているが、その陽気で朗らかな雰囲気を見ると、この店はまだ普通に営業しているのでは? と思ってしまうほどだ。
「ランチ、大丈夫ですか?」
「もちろんですよ。ただ、うちのランチ、メニュー、一種類ですけど」
「あんかけパスタですね?」
「あらー♪」
元々明るかった表情が、更にパアッと弾けたような笑顔になった。
「うちのランチ、ご存じなのね? 普通の人は、あんかけスパゲティって言うものだけど」
「こちらの店では昔から『スパ』ではなく『パスタ』ですよね。『あんかけパスタ』。私、仕事は名古屋なんですが、無性にここの『あんかけパスタ』が食べたくなりまして。それで思い切って電車で来てしまいました」
「あらー♪ あらー♪ なんて嬉しいこと! じゃ、すぐに作りますね!」
琴子は軽くスキップをしながら厨房に戻る。ひとりになったヤマモトは、店内をぐるりと見回す。ヤマモトは、琴子に嘘はついていない。琴子も、美桜も、大夏も覚えていないが、ヤマモトがこの店に来るのは二度目である。初回の訪問の時も『あんかけパスタ』を食べた。素直に、美味だと思った。
と、店のドアベルが鳴った。廃業しているのだから客は来ない。入ってきたのは家人である広中美桜だった。火事現場の動画と同じ服装。白いジャージの上下は、泥や煤でうっすら汚れている。昨夜からずっと愛知県警で事情聴取をされ、今、ようやく帰宅したところだとわかる。美桜の場合、人命救助と、放火犯の現行犯私人逮捕のお手柄に、暴行と傷害がセットになっている。愛知県警もだいぶ対処に迷ったことだろう。
「? ヤマモト、さん?」
美桜が驚きの表情になる。まさか、美桜から「さん」付けで呼ばれると思わなかった。ヤマモトは笑顔で頭を下げる。
「ご無沙汰をしております」
美桜の眉間に皺が寄った。
「どうしてここに?」
「ランチに」
「は? うちは廃業しましたけど」
「でも、この時期だけは、ランチ、やられてるんでしょう? 『あんかけパスタ』。最高級の玉ねぎをふんだんに使っていると評判ですよ」
「ご近所さんが親切で食べてくれるだけです」
「良いことです。美味しい食事は人間関係を円滑にしますから」
「……」
美桜はしばらくヤマモトをじっと睨むように見ていた。それから、ゆっくりと歩みを進めると、テーブルを挟んでヤマモトと向かい合う位置にどっかりと座った。
「で、本当の御用は?」
鋭い視線だ。変にとぼけたことを言ったら、いきなり殴られそうな気配だった。そのピリッとした空気がヤマモトには楽しかった。
「あんかけパスタが食べたくて」
「……夕べの火事とは関係ありですか?」
「夕べの火事?」
「アパートの大家さん、志村椎坐って人だって。ヤマモトさん。あんた、その人と関係があるんでしょう?」
「ああ、はい。私は昔、その方の子分でした。運転手とか、使いっ走りをしてました。ただ、志村さん、ビジネスで失敗して大借金を抱えてしまいましてね。それで、私が借金を肩代わりする条件で、栄と錦の利権を譲っていただきました」
ヤマモトが、包み隠さず事実を話すことに、美桜は少し面食らったようだった。
「……で、それと、どまつりと、どんな関係が?」
美桜が尋ねる。
「どまつりとは、まったく関係は無いですね」
ヤマモトは正直に答える。
「じゃあ、うちのドン臭い弟が刺された事件とは?」
また、美桜が尋ねる。
「それとも、まったく関係は無いですね」
ヤマモトは正直に答える。
「そもそも、昨日の放火事件は、ただの男女関係のもつれ、ですよね。放火犯は、自尊心ばかり膨れ上がったナルシストで、生まれて初めて女にフラれて激怒した。アパートに放火して、彼女を宿無しにして、困っているところに優しく手を差し伸べて、彼女が自分に惚れ直したら今度は自分からフリ返すつもりだった。そういう話を自供していると聞いてますけれど」
「詳しいですね。どこから聞くんですか?」
「友達から」
「警察にも、たくさんヤマモトさんのお友達が?」
それにはヤマモトは答えなかった。美桜に対して嘘を言うつもりはないが、何もかも答えられるわけではない。そこで、彼は露骨に話題を逸らした。
「ただ、アレですよね。世間は完全に誤解しましたね」
「誤解?」
「どまつりへの脅迫事件についてですよ」
「!」
美桜の表情がギュッと固くなった。彼女も状況は分かっているのだとヤマモトは理解した。
昨夜の動画。
たまたま、被害者がどまつりの学生実行委員長だった。
なので、元カレが放火を自白したことを「どまつり脅迫犯の自白」と勘違いした人間が複数現れた。
祭りが開催されるかを不安に思っていた関係者たち。おそらくは、事前に委員会から事件について知らされていた、どまつり参加予定のダンサーたち。彼ら彼女らが、安堵のコメントを大量にあの動画に寄せていた。
「ああ、良かった」
「これで、どまつりも無事に開催ね」
「犯人、死刑で良いよ。ふざけやがって」
「一年間の練習が無駄にならなくて済む」
「本当にホッとした」
当然、状況を知らない人たちが質問する。
「ホッとしたって何が?」
「どまつり、何かトラブってたの?」
安堵している人たちは、もうオフレコは解除されたと勘違いしている。
「実はね。めっちゃやばいことになっていて……あれやこれや。あれやこれや」
こうして情報は精査されることなく拡散していく。
「昨日の放火犯は、あくまで元カノを狙った卑劣漢でしかない。あなたの弟くんを襲った犯人じゃない」
「……それで?」
そこで、話が途切れた。琴子が『あんかけパスタ』を手に、
「お待たせしましたー♪」
と笑顔で現れたからである。
「おおー! 素晴らしい香りですね! これはとてもとても美味しそうだ!」
ヤマモトは、アメリカ人のようなオーバー・アクションで両手を広げた。それを見て、琴子はなぜか、パスタを手にしたままクルリと一回転し、片足の爪先で床をコンコンと叩いてから、恭しく料理をヤマモトの前に置いた。
「さ、召し上がれ♡」
「いただきます♡」
そんなふたりのやり取りを、美桜はじっと硬い表情で見つめている。
「あ、お母さん。タバスコもいただいて良いですか? 後半、少しだけ味変を楽しみたく」
「もちろん、よろしくってよ。ルルル~♪」
ヤマモトが頼むと、琴子は、上機嫌の極みという雰囲気で、歌いながらタバスコを取りに行く。琴子が去ると、ヤマモトはフォークで一口目をくるくると巻き取りながら言った。
「では、真犯人は、今、どんなことを考えているでしょう」
美桜は黙っている。ヤマモトは言葉を続けた。
「まだ、1円も手にしていないのに、いきなり『事件解決』『どまつり開催決定』というニュースが大量に流れてきた。真犯人、この状況に対して、黙っていられますかね?」