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「第1回」

真っ赤な軽のミニバンが一台、茶畑の中の道を走っていた。

季節は夏。時刻は十九時。空は夕焼けの名残で茜色に染まり、山の稜線は既に重たい鈍色にびいろのシルエットとなっている。広中美桜は、助手席からそれらをぼんやりと眺めていた。シンプルな白無地のTシャツ。細く、しかし程良く筋肉質のしなやかな脚にフィットしているダメージ・ジーンズ。靴はいつもはジョギング・シューズかサンダルなのだが、今日はグレイスのチーママの萩原はぎわらみさきから

「せめてパンプスくらいは履いてよ?」

と念押しされてしまったので、嫌々従っている。

(私ってば、いったい何をしてるんだか……)

これも、仕事の一環なのだとは理解しつつ、美桜の心は沈む。そもそも店外デートはしないという条件でグレイスには入店したのだ。相手が誰であれ、同伴もアフターもこれまではすべてお断りしてきた。今夜が、柳ヶ瀬で働くようになってから初めての「例外」である。

(心、弱ってるんだろうな、私)

そんなことをつい考える。

三十代に突入してからいきなり訪れた初恋。ひょんなことから、とある殺人事件に一緒に関わった。共に危険な体験をし、その過程で、彼には既に生涯を約束したパートナーがいることを知った。それも同性の……男性のパートナーだ。事件は無事に解決したが、恋は無惨に潰えた。幼い頃から「当たって砕けろ」を信条にしてきた美桜だったが、初恋だけは当たる前から砕けた。そして、心が弱っていることをみさきママに見透かされ、隙を突かれ、まんまとこんなデートをセッティングされてしまったのだった。

ため息をつきながら、美桜は運転席を見る。メタボリック・シンドロームの説明画像にぴったりの男がハンドルを握っている。望月もちづき康介こうすけ。弁護士。身長190センチ。体重は本人も把握していない。腕にも足にも筋肉らしきものは見当たらず、胴体に比して情けないほど細く、その分、腹はパンパンに膨らんでいる。本人は自分の見た目を、

「『トトロ』に出てくるネコバスに似てるって良く言われます♡」

と、説明するが、それはネコバスに失礼だと彼を知る誰もが思っている。

数日前。いつものように、美桜は自宅からジョギングでグレイスに出勤した。タマミヤ商店街から柳ヶ瀬までは、走れば約20分。店内では、ドレス姿のピアニストがジャズのスタンダード・ナンバーを弾いている。開店と同時に来店していた望月が、美桜を見つけて自分のテーブルへと手招きした。

「美桜ちゃん、美桜ちゃん。ぼくの『レッド・チェリー号』、走行距離が5000kmを超えたよ。なので早速、第一回目のオイル交換をしたんだ。こまめなオイル交換は高燃費の維持には欠かせないからね。限りある化石燃料を無駄に消費しないよう、ぼくは普段から意識高めのドライバーでありたいと思っているんだ」

それが、その日の望月の第一声だった。そして、

「これで、美桜ちゃんが助手席に乗ってくれれば、最高オブ最高なんだけど……」

と、大きな体を前にかがめ、上目遣いに美桜を見つめてきた。ちなみに、望月はもともと高級外車で女の子の気を惹こうとするタイプで、タントの前に乗っていたのはランボルギーニ社のカウンタックだった。が、美桜が「私はエコなファミリーカーにしか興味が無いんで」と望月の誘いを切って捨てたので、その日のうちに彼はカウンタックを売却してエコな軽のミニバンに乗り換えたのだった。

「これで、美桜ちゃんが助手席に乗ってくれれば、最高オブ最高なんだけど……」

まったく同じセリフを、望月はもう一度口にした。

美桜は、客の誘いを断るとき、取ってつけたような嘘は言わない主義だった。微笑むだけで、黙って聞き流す。それで、客は断られたのだと察する。いつもなら。なので、その日もいつものようにした。が、その日は、チーママのみさきが、ふたりの会話に割って入ってきた。

「美桜ちゃん。今週末は何か予定はあるの? たまには、望月先生の車でドライブなんてどう?」

「はい?」

それからみさきは、美桜の耳元に顔を寄せ、こう呟いた。

「美桜ちゃん。弟さんが事件に巻き込まれた時、望月先生にはたくさんお世話になったんじゃないの?」

「う……」

「それどころか、望月先生の命を危険に晒したとか」

「や、命の危険は言い過ぎだと思うんですけど」

美桜の反論を、みさきはスッと人差し指を立てて止めた。

「美桜ちゃんのマイルールは私も知ってる。でもね……」

みさきは、美桜の目を見て静かに言った。

「お世話になったらお礼をする。借りを作ったらきちんと返す。私、美桜ちゃんには、そういう女性であって欲しいわ」

「う……」

こうして、美桜と望月の初デートは決定したのだった。

 

茶畑を抜け、池田山の山頂へと続く道を上る。と、ほどなく「桜坂」という看板が見えてくる。眺めの良い中腹にポツンと佇む木造平屋のレストラン。駐車場には、先客の車が一台停まっていた。マット・ブラックのポルシェ・カイエン。望月は羨ましそうにそれを見つめたが、すぐに美桜の方を振り返り、

「このクルマも、市街地ではリッター10kmも走れないんだよ。エコじゃないよね。地球の敵だよね」

と媚びたような声を出した。そして、小走りに店に向かうと、美桜のためにうやうやしく入り口のドアを開けた。彼に小さく頭を下げ、店の中に入る。ふわっと、食材のほのかな良い香りが美桜を包み、彼女の鼻を控えめにくすぐった。

「ここ、初めて来たんだけど、ネットでの評価がすごくてさ。料理が素晴らしいのは当たり前で、その上、夜景も最高だって。あ、でも、美桜ちゃんが横に座ってたら、ボク、美桜ちゃんばっかり見ちゃって夜景は目に入らないかもだけど。てへっ♡」

(いい歳した男が『てへっ♡』とか言うな。『てへっ♡』とか)

美桜は心の中で毒づいたが、チーママのみさきの顔を思い浮かべて口には出さなかった。カウンター席だけの店内は、席数を厳選している分、ひとりひとりの客のスペースはゆったりと確保されている。カウンター席の正面には、横は店の全面、縦も腰高から天井に届くほどのガラス窓。どの席からも、濃尾平野の美しい夜景が特大のパノラマ写真のように眼前に広がる。季節によっては、小川のほとりを蛍も舞うとか。そして、遠くに金華山。その山頂でライトアップされている岐阜城までくっきりと見える。美桜は、夜景にキャーキャー騒ぐタイプの女子ではまったくないのだが、ここからの景色には胸がときめいた。そしてまた、考えないようにしていることを考えた。

(このお店に、畦地あぜち先生と来たかったな……)

そしてすぐに、その思考を脳から振り払う。

「お飲み物はどうされますか?」

店主が尋ねてくる。望月は、運転があるのでノンアルコールのカクテルを頼む。美桜は、

「おすすめの日本酒をぜひ」

と、答えた。「桜坂」は洋風と和風の両方を取り入れた創作懐石料理のお店で、料理に合わせて抜群に美味しい岐阜の地酒を出してくれると、望月が道すがら何度も言っていたからだ。

「ちなみに、お酒のお好みはございますか?」

「そうですね。今日は、飲んだ瞬間からパーッと楽しい気持ちになれるようなお酒を飲みたいです」

「なるほど。しばしお待ちください」

美桜のリクエストを聞くと、店主は一度奥に引っ込んだ。そしてすぐ、一升瓶を手に戻ってきた。

「日本一小さい酒蔵と言われています、杉原酒造さんの千代の花。純米吟醸しぼりたて。飲んだ瞬間から、パーッと楽しい気持ちになれるようなお酒でございます」

最初の一杯は、店主が注いでくれた。ガラスの酒器を手に取ると、横からニュッと、ノンアル・カクテルを持つ望月の手が伸びてきた。

「君の瞳に乾杯♪」

カチンと酒器と酒器がぶつかる。店主は、望月の気障きざな仕草は見なかったかのように、スッと料理の支度に戻る。

(畦地先生。末永く、お幸せに)

美桜は心の中でそう呟いた。そして、飲んだ。

店主おすすめの酒は実に美味だった。

 

美桜の左隣りは40代くらいの夫婦だった。夫は細身で筋肉質で、仕立ての良いスーツと、糊の効いた白いシャツを身に纏っていた。妻の方は、上品なベージュのワンピース。夫に比べると、少し地味な印象を美桜は受けた。

「奥様も、同じもの、お試しになられますか?」

美桜が飲むのをじっと見ていたのだろう。店主が妻の方に声をかけた。彼女はパッと嬉しそうに表情をほころばせたが、彼女が答えるより早く、夫の方が返事をした。

「いえ、結構です。妻は、前に一度、日本酒でだいぶ酔ってしまったことがありまして」

妻は顔をやや強張らせながら、

「だいぶって……ほんの少し、声が大きくなったくらいのことでしょう? それに、もう二年も前のことなのに」

と、小声で抗議をした。が、夫の方は妻の気持ちを意に介す気は無いようだった。

「君は、自分に少し甘いところがあるからね。妻の節度を守るのも夫の役目だよ。今日は、コースに合わせて白ワインと赤ワインをグラスで一杯ずつ。それが君の適量だ」

「でも……」

「ぼくの言ったことが聞こえなかったのかな? 君は、耳が悪いのかい?」

「……」

夫の言葉に、妻はそれ以上の抗議を諦めた。夫はふふんと口角を上げると、

「それに、ぼくは日本酒の香りは苦手でね。相手の好みを尊重するのも大人のマナーだろう?」

と、妻の目を覗き込むようにして言った。妻は黙ったままだった。店主は『千代の花』の一升瓶を冷蔵庫に戻し、料理の続きに戻った。

美桜はしばらく、今の夫婦の会話について考えていた。右隣りでは、望月がどうでも良い蘊蓄うんちくを語っていたが、美桜の耳には入ってこなかった。

やがて美桜は、夫の方に声をかけた。

「そういえば、外のポルシェ、あなたのですか?」

今度は、夫が顔を綻ばせた。自慢の車なのだろう。

「はい。そうです。車、お好きなんですか? あ、ぼくらが飲んでいることならどうかご心配なく。帰りはきちんと代行を呼びますから」

と、上機嫌な声を出した。美桜は手を軽く振って、

「いえ。実は、外のポルシェ、室内灯が点きっぱなしになっていました。あのままだと、バッテリーがあがっちゃうかも」

「え? 本当ですか?」

夫は大きく目を見開き、確認のために、バタバタと外に出て行った。美桜は店主に

「トイレ、どこですか?」

と尋ねると、望月に、

「先生。ちょっとだけ失礼しますね」

と言って、席を立った。

 

男は慌てた様子で駐車場に来たが、彼の愛車は、室内灯もヘッドライトもきちんと消えていた。

「ちっ。勘違いかよ」

舌打ちをしながら、店に戻ろうと振り返ると、店から美桜が出てきた。

「?」

彼を睨む眼光が鋭い。その不穏な佇まいに男が気圧けおされていると、美桜は静かに彼に近づき、低く小さな声で言った。

「おまえは今夜、牛乳だけ飲め」

「は?」

何を言われたのか、男は理解出来なかった。と、美桜は男の鳩尾みぞおちを拳で軽く押しながら言った。

「私の言葉が聞こえなかったのか? おまえは耳が悪いのか? 牛乳だよ。おまえは今夜、ずっと牛乳だけだ」

「はあ? 何をバカな(ことを)」

最後までは言わせてもらえなかった。拳で押したのと同じ場所に、美桜が強烈な膝蹴りを叩き込んだからだ。

「グハウッ!」

激痛に胃を抑えうずくまる男。美桜は、男のよくセットされた髪を左手で乱暴に掴むと、グイッと彼の顔を上向きにさせた。そして、男の目を覗き込みながら言った。

「私はおまえみたいな男が嫌いだ。隣りに座る人間の好みを尊重するのも大人のマナーだろう?」

「え……あ……あ……」

「わかったか? わからないなら、次は顔を蹴るぞ」

「い、いえ、ちゃんと、わかりました……」

男は敬語で答えた。

「そうか。なら良い。あと一分待ってから、普通の顔をして戻ってこい」

美桜はそう言って、男の髪から手を離した。

「あ、席に戻ったら、彼女には『竹雀』をご馳走しろ。びっくりするほど旨いから」

 

その後は、平和だった。

料理はすべて美味だったし、隣りの夫婦も傍目には何の違和感もなく、仲良く食事をしていた。夫はずっと牛乳を飲み、妻は店主のおすすめの日本酒を何種類も楽しんだ。妻は元々お酒が強いらしく、ほんの少し表情が晴れやかになっただけで、酔って醜態を見せたりはしなかった。望月は全ての料理で

「出来れば大盛りでお願いします」

とリクエストをし、完食後は

「幸せだー!」

と何度も腹を撫でながら言った。

 

帰り道。漆黒の山道から、麓の茶畑のワインディング・ロードへ。美桜は、車窓からの景色をぼんやりと眺めながら、

(あれは、八つ当たりもあったかな……)

と、心の中で反省した。

(膝蹴りは、やり過ぎだったかも……)

突然、運転席の望月が、いつもより落ち着いた声で訊いてきた。

「美桜ちゃんが普通の男の人よりも男っぽいのは、やっぱり、弟くんのためだったりするの?」

「はい?」

「や、美桜ちゃん、前にさ、『自分たちがまだ小さい時に、お父さん、家から出て行ったんですよー』って言ってたじゃない? だから、それからずっと、美桜ちゃんは自分が大夏くんの父親にならないとって思ってるのかなって。普通の父親よりも父親らしくなろうとしたせいで、その、短気ですぐに手が出る『カミナリ親父』っぽい感じになったのかなって」

「もしかして、駐車場の、見てたんですか?」

美桜が尋ねると、望月は手をブンブンと左右に振った。

「見てないよー。見てないけど、でも、あのくらいわかりやすく彼が変化したら、だいたいの察しはつくよね。それにぼく、美桜ちゃんの性格も行動も、前より理解してるつもりだし」

「すみません。下手したら、今日の食事会、台無しにしちゃってたかもしれないですよね」

「全然、謝ることなんかないよ。だって、あの人、めちゃめちゃモラハラだったもん。あれ、今の時代じゃ一発アウトだよ。美桜ちゃんは正しいことをしたんだと思う」

「……」

それから望月は、いつもの雰囲気に戻り、

「それにしても、美味しい料理だったねー! 今度はさ、紅葉の季節にどう? 燃えるような真っ赤な秋の景色を楽しんで、それからあのお店で秋の味覚を楽しもうよ! 栗とかさー、柿とかさー、あー、こんなこと言ってたらもうお腹が空いてきた!」

と、はしゃいだ声を出した。そして美桜は、はしゃぐ望月を見ながら、父親の最後の声と言葉を思い出していた。

 

「お父さん、フィリピン・パブの女性を好きになってしまったんだ。だから、彼女と駆け落ちをする。琴子ことこ、美桜、大夏だいき……みんな、ごめん」

一方的に言いたいことを言って、父からの電話は切れた。

それが、父の声を聞いた最後。

あの時、美桜は中学生だった。

 

と、美桜のスマホが震えた。

着信画面を見ると、愛知県警の緒賀おがという刑事からだった。今年の春、弟の大夏がとある殺人事件に巻き込まれたせいで、美桜は緒賀刑事と個人の携帯番号を交換する間柄になっていた。

望月は、美桜の携帯画面を堂々と覗き込み、

「緒賀? あのハードボイルドぶった嫌味な刑事? なんで美桜ちゃん、まだあいつの番号なんか残してるの? もうあの事件は解決したんだから、さっさと消去してブロックしようよ。あいつ、無実の大夏くんの鳩尾に空手パンチ入れるような暴力野郎だよ?」

と、一気に捲し立てた。

(鳩尾を殴るって意味では、私も同類だけど……)

そんなことも思いながら、美桜は電話に出た。

「美桜さん。実は大夏くんが、先ほど、暴漢に襲われました」

「え?」

「今、意識不明の重体です……」

「……え?」


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